・使用フレーズ「我慢できないほどに辛いのは」
私のうちは代々ユキヒというキュウコンの世話をしていた。
なんで世話をしてるのかとお母さんに聞いたら、彼が昔、私の曾曾曾……というとあと十回ぐらい繰り返さないといけないぐらい昔のおじいちゃんの友達だったからだと言われた。
とりあえず、言いたい。
ふざけるな。
そりゃ、ユキヒはおじいちゃんだから世話をしなきゃいけないとか、ポケモンは大切にしなきゃいけないなんて分かっている。
それでポケモンの世話は、忙しい忙しいと文句を言うお父さんとか料理の献立を考えるのに忙しいお母さんよりも、暇な私がしたほうがいいのも分かる。
でも、それとこれとは話が別だ。
そんな風にユキヒの世話を押し付けられるなんてたまったものじゃない。ポケモンの世話ってそんなものじゃ、病人の世話をするようなもんじゃ、ないじゃない。
私がそういう風に言って、ユキヒの世話を嫌がるとお母さんは困っている顔をする。
反抗期かしらね、なんてとってつけたように言う。
それが気に喰わない。
嫌がられたユキヒは楽しそうに呵呵と笑う。
子供はそのぐらいが丁度いいわい、なんて目を細めて笑う。
それが気に喰わない。
だから、私は嫌々世話をする。
反抗期なんかじゃないと言って世話をする。
世話をしたらしたで、小さいのにチエは偉いのぅなんて十五歳の私に言ってくるユキヒ。
それが気に喰わない。
思春期女子として、子ども扱いは許せない。
自分が思い通りに動かされたようで、子ども扱いなその言葉が気に喰わない。
反抗期じゃないのを証明するとかおじいちゃんだからしなきゃいけないとか、そんな下らない理由で世話をしたんじゃないのに、自分の行動を振り返ると、その通りに感じてしまう。
だから気に食わない。
それでも、私は今日も世話をする。わたしのユキヒの世話をする。
「チエ、今日のポフィンはちょっと味を変えたか?」
「……変えたけど」
「そうか」
三時のおやつ。いつもの時間に私が作ったポフィン。
それに対するユキヒの感想はそれだけだった。
変えなければ、何も言わずに食べるから、今日は木の実の配合をちょっとだけ変えてみたのだけど、そんな返事しか返ってこない。
いつもそうなのだ。彼の言葉は素っ気無い。隣で様子を窺う私にお構いなしで食べ続けるキュウコンにジト目を向けて、自分の分のポフィンを食べる。
ポフィンの良い所は人間が食べても美味しい点だと誰かが言っていた。
確かにおいしい。自画自賛だけど、この甘酸っぱい感じはなかなか美味くできた。
それでもユキヒは変えた、という点でしか反応しない。美味いとか不味いとかそんな反応もしない。
不味くても文句を言わない。美味しくても賛辞を言わない。
ただ作ってくれてありがとうなんて、そんなとってつけたような感謝しか言ってくれたことはない。
ポフィンだけじゃない。自分がユキヒになにかをして、返ってくるのは感謝の言葉だけだ。
いや、話を振れば、答えてくれるけど。
「作ってくれてありがとうな」
ぼんやり思いながら、食べ終えて帰ってきた言葉はやはりそれ。
私はほんの少しの落胆に見ない振りをして、ポフィンが置かれていた皿に手を伸ばす。……手を伸ばして空を切る。
ユキヒの”じんつうりき”だ。
器用にも彼は、お皿を割らないように操りながら、洗面所まで持っていくと、スポンジまで操って綺麗にしてしまった。
お皿に一瞥もくれずに、こんなことをやるのはすごいと思う。
毎度のことながら感心する私。腹が膨れたユキヒは欠伸して、そのままそこで寝入ろうとして、
「ここで寝るのはダメ」
私は止める。ここで寝られたら、風邪を引かれてしまう。風邪を引かれたら大変なのだ。
「日向ぼっこじゃよ。食後の運動がてらに」
「それ食後の運動じゃないから」
よほど眠たかったのか、ポフィンで反応しなかったユキヒは私に不満げな声を立てる。
それでも、私は許さない。暖房が入ってないここは寒いのだ。
そう言っても聞かないだろう、別に構わんとか言って、寝入るだろうから、別の言葉で止めさせる。
「じゃあ、なんか話して」
「それも運動じゃないだろうに」
そんな私にユキヒは不満そうな顔で見る。
そんな顔は見ない振り。とりあえず、寝かせないこと優先。眠ったユキヒは暖かいけど重いのだ。
「なんでもいいから」
私もやることないし、暇だから。
「とりあえず、話して」
お願い、と我ながらぞんざいな態度で要求する。
そんなつまらなさそうな私の態度を気のいいユキヒは気にしない。というか、しっかり分かってくれているのだろう。
「話さないとダメか?」
「じゃないと散歩」
「今年一番の冷え込みってテレビで言っておったんじゃが」
「知ってる。あと、私寒いの苦手」
「知っとるよ。……やれやれ仕方ないのぅ」
ユキヒは根負けした。話を考えているのだろう、遠い目をして空を眺める。
老狐が話を考えている間に、私は立ち上がる。台所に向かうと余分に作ったポフィンをお皿に盛って、先程と同じユキヒの隣に座る。
さっきと違うのはポフィンが同じお皿に盛られているだけ。まだ考えているらしい。私の横からは唸る声が聞こえる。
待つのは柄じゃない。昔からじっとできないのだ。
ポフィンに手を伸ばす。口に入れる。うん、やっぱり美味く作れた。
「そんなに喰うと太るぞ……まぁ、お前はもう少し肉付きをよくするべきか。食べ物を残すのは良くないしのぅ」
ユキヒは食べ始めた私を横目で眺めながら、そんなことを言ってきた。次言ってきたら、殴ろう。
そう決意して、ポフィンを食べる。
「うるさい、馬鹿キュウコン」
私は体重なんて気にしない。
わたしはスレンダーなのだ。むしろ、こう、色々な場所に肉がつかないと……
「おぉ、思いついた。昔な、胸が洗濯板のような――」
とりあえずはたく。
「何故!」
「何を見て思いついた?」
「言ったら殴るだろう?」
今度は殴る。殴られたユキヒは呻いているが気にしない。自業自得だ。
全くもって失礼だ。
「すまんのぅ」
「謝るの止めて。次は蹴る」
「それはいやだのぅ」
ユキヒは私が怒っているのを見ている。心なしか楽しそうだ。
それを見て、私はそっぽを向く。
怒っているのを示すためでも、ばつが悪くなってそっぽをむいたわけでもない。
なんだか、照れくさくなるのだ。ユキヒの微笑みは。
その時に抱く気持ちは、胸の奥をくすぐられるような気持ちは嫌いじゃない。
「じゃあ、男との縁がなかった女性の話を――」
「それもダメ」
ユキヒの選ぶ話題は落第点。ダメにダメをかけたような酷いものだ。
話題の選択で褒めるところなんて、一欠片もないけれど、ユキヒの声は評価に値する。褒めていいし、聞いていたい。
陽だまりに居るような、ご飯を食べた後で眠くなったときのような。
そんな気持ちにさせてくれる声で落第点な話題を話すユキヒ。
寒いリビングの中、彼の隣でポフィンを食べる。
わたしはこの時間が嫌いなわけでは決してない。
ユキヒの隣は暖かい。そして、私は寒いのが嫌い。
だから、隣に居るのは、当たり前。
私はそう思っていた。
明日が明日にあるように。昼の次には夜が来るように。当たり前のようにそう思っていた。
いつものようにポフィンを食べて、いつものように話す、そんな気に入っている日常が続くと思ってた。
それはきっと正しかったのだろう。私とユキヒはずっとずっと隣に居るという認識は正しかったのだろう。
ただ、その”ずっと”が私の一生の間というわけではなかった。
それだけのことだった。
本当にそれだけのことだった。
◆ ◆ ◆
最初は単に起きるのが遅くなった。散歩をしてる時、いつもの半分で音を上げた。
その程度。
次は食べる量が減ったり、呼びかけに応えるのに遅れたり。
ちょっと不安。
少し気になった。
気になったからポケモンセンター。年寄りなので少しの不調が一大事に繋がることもあるのでちょくちょく健康診断もかねてポケモンセンターに行くことにしている。
そのせいで年寄り扱いが嫌いなユキヒはポケモンセンターに連れて行くのを嫌がるけれど、今日はなにも言わなかった。
重症かも。
「なんか変なもの食べた?」
「美味いものしか食うておらん」
答えになってない答え。とりあえず横において、尋ねる。
「じゃあ、なに?」
「病気ではないと思うがのぅ。まぁ、何を言われても平常心。そうとしか言えないのぅ」
そんなことを言うユキヒ。
「そっか」
訳の分からないままに頷いておく。
そして、ポケモンセンターで馴染みのジョーイさんに預ける。
いつもの健康診断よりずっと短い時間で、終わった診断。口が重そうなジョーイさん。
ユキヒは私の足元に擦り寄ってくる。
いつもと違う。
健康診断に来て、何もなかったわよ、と言うジョーイさん。
終わった瞬間、開口一番で、ほらだから年寄り扱いするな、と言うユキヒ。
そんないつもと違う調子。違う空気。
だから、わたしも無料だからやってもらえばいいじゃない、といつもどおりに言えなかった。
「どうかしたんですか……」
自分で分かるほど掠れた声。間抜けなそれをしかし誰も笑わない。
「あのね……」
「病名は老衰じゃと」
言いにくそうなジョーイさんの声。
気安げなユキヒの声。
「老衰は病気じゃない」
掠れたままの私の声。
そう、老衰は病気じゃない。
「確かに。寿命みたいなもんだからのぅ」
「老人キュウコン」
「わしはポケモンだから、”人”は正しくないのぅ」
やっぱりいつもと違う。いつもは年寄り扱いすると文句は言わなくとも、顔をしかめるのにそれがなかった。
私は年寄り扱いするのを躊躇わないのに、今日は喉に引っかかった。
そんなユキヒと私。
それとドライアイになりそうな空気の私たちを見ていたジョーイさん。
ジョーイさんは見かねたのか、耐えられなかったのか、声を掛けてくる。
「あの、チエちゃん?」
「なんですか?」
「何か、聞きたいことはない?」
「やっちゃいけないことってあります?」
「え……あぁ――」
それだけを聞いて私とユキヒはポケモンセンターから帰った。
◆ ◆ ◆
「キュウコンって千年生きるんじゃないんだ……」
「あれはあくまでも、言い伝えじゃよ。本当に千年生きたかは誰にも確認できておらん」
「でも長生きなんでしょ?」
「それはな。だから存外、これから、三十年ぐらい生きるかも知れん」
「頑張れ、老人」
この会話には意味がない。私たちの間に流れる乾いた空気が全てだった。
結局、ユキヒは寿命が近いってこと以外は健康そのものだけど、激しい運動はダメといわれただけ。
それ以外は何もなし。食事制限なし。そして、対処法もなし。
「まぁ、いつかは終わるもんじゃよ」
ユキヒは私の顔色を窺う。
そのくせ、私が気にすることなんて欠片も気にしない。
リビングの片隅。二人で過ごすいつもの場所。
やることだって変わらない。
私が何かを言って、ユキヒが応える。それだけだ。
私の作ったポフィンを二人で食べる。それだけだ。
本当に日常。ただ、いつもと違うのは、口数が多いところ。
「終わらせないように頑張りなさいよ」
「まぁ、チエの晴れ姿を見るまではのぅ、死にきれんしのぅ」
「晴れ姿って成人式?」
「結婚式」
「じゃあ、三十路ぐらいまで伸ばす」
「これこれ、言い訳にされても困るぞ」
「これでも、もてるんだから」
「それは嘘じゃろ」
「そこは適当に同意しなさいよ」
「嘘は吐けんからのぅ」
「狐の癖に」
「狐の全てが嘘を吐くわけじゃないぞ。わしは」
昔から狐は人を騙すのだ。昔話じゃ相場が決まってる。
そう言ったら、ユキヒは眉を潜めた。
「そんな与太話とわしの人柄。どちらの方が上だと――」
「与太話のほうに決まってるじゃない」
「なに!」
「いつもいつも変な話題しか話さないくせに」
「自分が共感できるような人間が主人公じゃないとダメじゃろ?」
「どこでそう思った?」
「言ったら怒るだろうが」
「ユキヒは殴られたいの?」
「事実を言っておるだけじゃよ。わしは正直だからのぅ」
「なによ、それ」
女らしくないのは理解している。それでも今、言わなくてもいいじゃない。
そんな気持ちもなくはないけど、他愛もない会話は嫌いじゃない。なんにもならない会話はいつも通りだ。いつも通りは嫌いじゃない。
「なに、大丈夫じゃよ」
「何が?」
不貞腐れたような風を醸し出した私の頬をユキヒの柔らかい尻尾が撫でる。
それだけで解かされる私の不機嫌。なんだか、安っぽい気がするけど気にしない。
「結婚できるし、幸せになれる。皆、そうじゃった。チエだって変わらんよ。料理は美味いし、気立てもいい。だから幸せになれるよ」
「本当?」
「嘘は吐かんと言ったじゃろう」
「じゃあ、信じる」
「そうかい」
代わりに、と私は言った。
信じるから、幸せになれると、そんな曖昧ででまかせなユキヒの言葉を信じるから、その代わりにと。
一つだけ約束して欲しいと私は言った。
「結婚するまでは生きてよ。ユキヒに」
「わかったよ」
「約束」
「ん、約束」
そう言ってユキヒを見ると目が合った。笑っておく。
ユキヒも笑う。
「嘘を吐いたら、ハリーセン飲ますから」
「それは嫌だのぅ」
「頑張ればいいだけじゃない」
「そうだな」
そう言って、ユキヒは目を瞑った。あまりに自然に。眠る前の欠伸もなしにユキヒは目を瞑った。
「ユキヒ――」
こんな寒いところで寝たらダメ、と言って。引き攣れた声で言ったのだけど。
ユキヒは応えない。いつもと違うように目を瞑ったユキヒは応えない。
「ユキヒ、応えてよ……応えてよ」
「…………」
ユキヒは応えてくれない。
ユキヒは寡黙で素っ気無い。それでも私が聞けば、応えてくれる。寝ていたって応えてくれる。寝ぼけ眼で応えてくれる。
いつだってそうだった。でも、今は違う。
「ユキヒ」
いつもと違うユキヒに触ろうとして、躊躇った。
もう既に理解していたのに、分かっていたのに。そうだ、ユキヒに嘘を吐かれたのだ。
狐は昔から人を謀る。騙す。嘘を吐く。
結局ユキヒもそうだった。
違うと言ったユキヒは、狐は嘘を吐いた。
騙されたと知りたくないから躊躇った。
それでも、嘘じゃない。そう思いたいから、手を伸ばす。そして、確認した。してしまった。
「ここで寝ないでよ、ユキヒ」
触れた先にあったのは冷たいユキヒ。
いつもは暖かいのに、今は冷たい。
それだけしか違わないのに。本当に寝ているようにしか見えないのに。
このリビングに居るのは私だけ。それを知ってしまった。
知った私は最後に一言。この気持ちを飲み込むのではなく、吐き出すために。
「ここは寒いんだから」
その一言だけを呟いた。
呟いた私はその寒さに耐えられそうになくて、独りで震えた。
それから数日が経って、少しだけ日常が変わる。
ほんの少し、たった一つのものが欠けた日常。
いつもの時間に作ったポフィン。
いつものようにリビングの片隅。
いつもと違うのは、隣に居ない馬鹿キュウコン。
たったそれだけ。それだけでしかない。
それだけなのにこの景色は色を失ったかのよう。
まったくもって馬鹿らしい。
「本当に……馬鹿」
ユキヒはいない。死んだのだ。それはあのとき触れた冷たさで理解したのに。したはずなのに。
「……馬鹿みたい」
作ったポフィンは二人分。
溜息吐いて、ポフィンを食べる。
黙々と食べる。食べる。二人分の量をたった一人で。
ポフィンは案外ボリュームがある。だから多く作ると片付けるのが大変なのに。
『そんなに喰うと太るぞ……まぁ、お前はもう少し肉付きをよくするべきか。食べ物を残すのは良くないしのぅ』
うるさい、馬鹿キュウコン。
体重なんて気にしないし、関係ない。
いつもよりも食べるのが遅いのは、失敗したからだ。体重を気にし始めたからじゃない。
そう言い聞かせて、もう一口。食べて、やはり思う。
今日のポフィンは失敗だ。どうにもしょっぱくていけない。
それでも、私は食べ続ける。食べ物を無駄にするのは勿体無い。
食べるのにいつも以上に時間が掛かるが別に良い。
食べ続ければ、塩味のせいで水が欲しくなる。喉が渇いて、食べるのが辛くなってくる。
でも、そんなのはまだいい。良くはないけど、我慢はできる。
辛いのは、我慢できないほどに辛いのは、
「寒いよ、馬鹿ユキヒ」
二人分の量を一人で食べる。そのせいで長くなった、この時間。