赤い色のロコン



・使用フレーズ「駆け抜けたその先には」








忘れないで あなたは一人じゃない

 忘れないで 味方はきっと近くにいる

 哀しい思いなんて しなくて済むから

 きっといつか あなたの居場所が見つかるから

 青い空の下には あなたが幸せになれる場所があるから

送り火山の近くにある森の中で、幾重にも折り重なった葉を踏みながら、一匹のロコンが歩いていました。六つに割れた尻尾を少しだけ揺らしつつ、小刻みに震える足を懸命に動かしながら、彼は俯いて考えごとをしておりました。これから巻き起こる不幸な事柄について、どうしたら被害を最小限に出来るのか、ひたすら思考をループさせていました。
 ロコンの歩く獣道には、居合い切りではとても切れなさそうな程の太い木々が、密集して立ち並んでおりました。木々はたくさんの葉を身に纏っていて、日差しが降りてくるのを防いでおり、森の中は巨大な手のひらに覆い被せられたかの如く、とても暗くなっていました。まるでロコンの気持ちを表しているかの様でした。
 背後から、葉を踏む音が、二つ聞こえてきました。その音は、徐々にこちらへ近づいてきましたが、ロコンは特に警戒して振り向くことはしませんでした。彼はこれから自分の身に何が起こるのか、足音の間隔と仕方でだいたい予想がついていました。予想がついても少し怖くて、若干小走りになってはいましたが。
 次の瞬間、ロコンの身体は浮いていました。
 後ろからやってきたのは、二匹の彼と同じ種族のポケモンでした。しかしこの二匹、彼とは外見に明らかな相違点がありました。彼は身体の色が赤く、翻って二匹は黄色かったのです。
 黄色いロコン達はくすくすと笑いながら、赤いロコンを追い抜かし先へ進んで行きました。
 居場所を誤って地面から飛び出した木の根の上に、赤いロコンはぽつんと倒れていました。しばらく時間が経ってから起き上がって、深く溜息をつきました。もう何回やられたことか。彼はこうして歩いているとき、必ず後ろから体当たりされます。


 森を抜けると、そこには草原がありました。
 草原は、気持ちが良さそうな所でした。太陽の日差しが暖かい温度と雰囲気を作り出し、鮮やかな緑色の草と色とりどりの花が赤茶けた地面を豊かに飾っていました。時折新鮮な空気を連れた心地良い風が吹き、草原にいる生き物の頬を優しく撫でていきます。中心部にある細長い川には、光の粒子を反射させて輝きを放つ綺麗な水が、一時とも休むこと無く流れていました。
    草原には、たくさんのポケモンがいました。キリンリキの群れがずらりと横に並び、長い首を曲げて川で水を飲んでいました。イルミーゼとバルビートが仲良く手をつなぎ、無邪気に低空を飛び回っていました。ジグザグマ達がどこかで拾ってきた太い枝を、走りながら蹴って草で作ったかごに入れて、楽しそうに遊んでいました。ここはポケモン達にとって、とても暮らしやすい所でした。
 しかし彼にとってこの場所は、文字通り地獄のような空間でした。
 暗い表情のまま草原に辿り着き、虚ろな眼で空を見上げていた赤いロコンは、いつの間にか六匹の黄色いロコンに周りを丸く囲まれており、逃げ場が無くなっていました。黄色いロコン達は皆、円の中心で身体を震わせ誰とも眼を合わさないように下を向いている「異端児」を見て、声を出して笑い興奮しているかのように尻尾を揺らしていました。
 不意に笑い声がぴたりと止み、束の間の静寂が走った後、黄色いロコンの中で最も目付きの鋭い一匹が、赤いロコンの後ろ足を思い切り蹴りあげました。蹴られた標的は悲鳴を上げてその場に倒れ、苦痛に顔を歪め涙目になりました。そしてそれから黄色い化け物(モンスター)達が、一瞬の休息の暇も与えずに、次から次えと攻撃を繰り出してきました。背後から鋭利な歯で強く足に噛みついたり、遠くから助走をつけて体当たりしたり、正面から鋼鉄の如く硬くした尻尾を振り回したりしてきました。また、特に何もせず囃し立てている者もいました。
 その間、赤いロコンは決してやり返したりせず、もう止めて下さいという懇願さえもすることは無く、迫り来る猛攻をひたすら受け続けているだけでした。しかし、心の中では必死に抵抗を試みてはいました。
 しばらくすると、赤いロコンの身体は見るに堪えない程ボロボロになっていました。噛みつかれた後ろ足の傷口からは、大量に血が噴き出し折れた骨が露出していました。顔はあちこちが腫れ上がり、右目を潰されておりました。そして六本の尻尾は全て、無惨に引き千切られていました。
 もう周りに黄色いロコン達はいませんでした。のどかな草原の端っこで、本当の意味で瀕死の狐が独りで、小さく横たわっていました。


 赤い色のロコンは、ずっと黄色いロコン達に、いじめられてきました。
 そのいじめは、どんどん酷くなっていきました。始めは悪口だけだったのが、肉体に苦痛が及ぶものに変わっていき、最近では死ぬ寸前まで痛みつけられるようになりました。いじめられ終わった後の身体は、どんどん醜くなっていきました。しかし、ポケモンの自然治癒能力は、人間のそれとは比べものになりません。生生しい傷痕を伴った身体は、瞼を閉じて一夜横になればほとんど蘇っていました。引き千切られた尻尾も、元通りに生え変わっていました。それをいいことに黄色いロコン達は、他者を傷つける罪悪感を欠片も感じずに、新品になった赤いロコンの姿を見ては、即座にいじめるようになっていったのでした。
 そもそも彼は、ここに住むポケモンではありませんでした。
 彼はそもそも、人間のポケモンでした。孵る以前から、人間に育てられていました。主人はこの上なく優しく、自身のポケモンを大切にし、普通のトレーナーとしての務めを全うしていました。赤い色のロコンは、平凡であるが善良な主人の下で、すくすくと順調に成長していき、そうして幸せな日々を過ごしていました。
 しかしあるとき、彼は捨てられました。
 理由は少し複雑で、彼は理解するのに時間を有しました。トレーナーという職業は、国から毎月お金を貰っていました。しかし、ここ最近日本の借金が二千兆円を超え、さらに高齢化が深刻になってきました。それにより、トレーナーの方にお金を回すことが困難になり、貰える額が少なくなってしまったのです。   これは主人にとって、大変痛手なことでした。ポケモン達や自分の生活費、既に収入と支出のバランスがギリギリだった生活は、完全なる崩壊を施されることになってしまいました。
 そこで主人が考えたのが、手持ちのポケモンの数を減らし、その分の食費と雑費を浮かすということでした。随分前から有料化されていた、ポケモン預かりシステムを使うことは、当然できる筈がない。ならば、手持ちから何匹か捨てるしかない、という苦渋の決断でした。そして、その決断の犠牲となったのが、メンバーの中で一番レベルの低い、赤いロコンという訳でした。
 これは一見酷く残酷なことのように思われるかもしれません。しかし、どれだけそのポケモンを気に入っているか、はたまたどれだけそのポケモンに気に入られているか、そういうことで決める方がよっぽど残酷で差別的だと主人は考えたのです。

「今までありがとう」

「お前はもう自由なんだよ」

「どこへでも好きな所にいきな」

 そういい残した後、二度と赤いロコンの前に、主人が現れることはありませんでした。
 赤いロコンは捨てられたことについて、特にトレーナーを憎むことはありませんでした。だってそうしなければ、主人が生活できないのだから。誰かが救われるためには、誰かが犠牲になるしかない。誰かが幸せになるためには、誰かが深い哀を味わうしかない。それは紛れもない真理であり、不変の事実。だから、それは仕方のないことだと、諦めていました。そして、自分には他人を哀しませるようなことはできないのだから、自分が哀しむしかないと思っていました。
 捨てられた彼が行きついた場所、そこが最悪であることは誰の目から見ても明らかでした。ここは本来、彼がいるべき場所では無かったのでした。 
 赤いロコンはいじめのせいで、ずっと辛い思いをしてきました。
 彼は自分の、赤い色の身体を、憎みました。普通だったら、身体の色が普通だったら、いじめられずに済むのだろうか。こんな地獄のような日々を、避けて通れるのだろうか。周りと違う者は差別され迫害され、挙句の果てには殺される。かつて、ジグザグマの中に一匹だけいた色違い。紅葉を想起させる色をしたそのジグザグマが、毎日サッカーボールのように蹴られ続けた挙句、ついには死んでしまったあの日。そのことを思い出すたび、やってはいけない連想をしてしまい、赤いロコンは恐怖の念に毒されます。そしてそのとき、ポケモン達が誰もそこまで気にかけていなかったことが、彼の恐怖に拍車をかけました。
 草原に行くと必ずいじめられます。それなら、森の中でずっと隠れていればいいんじゃないか。しかし、かえって仕打ちが醜くなる前例がありました。太い木の後ろで隠れていたとき、何時の間にか囲まれて逃げ場が無くなって。そのときのことを恐怖し、嫌でも草原に行くしか手が無く。どうすれば被害を最小限にできるのか考えつつ、震える足をむりやり動かし、草原に自分を毎日ひっぱっていきました。 


 実は、彼の他にも、彼と同じ赤い色をしたロコンがいました。
 色違いのジグザグマが亡くなるもっと前、セレンという名の女の子のロコンが、ここで昔暮らしていたのです。セレンも色違いだったので、同じように黄色いロコン達にいじめられていました。彼と共通の立場だったセレンは、唯一の友達であり唯一の味方でした。痛めつけられている間は互いの被害が均等になるようにかばい合い、痛めつけられ終わった後は二匹で傷をなめ合ってきました。二匹は絶望的状況のなかで真の友情を培い、なんとか支え合って辛い日々を乗り越えてきました。

――大丈夫。私がついているから。

――ほら泣かないで。男の子でしょ。

――いつかきっと希望があるから。諦めちゃだめ。

――青い空の下にいれば、必ず幸せになれる日が来るから

 セレンは、精神的に追い詰められてきた彼を、いつも励ましていました。そのおかげで、彼はここまで生き延びれたといっても、過言ではないです。
 しかし、彼女はある日突然いなくなってしまいました。
 この森からの脱獄を図ろうとすれば、当然黄色いロコン達が追いかけてくるでしょう。仮に上手く逃げられたとしても、彼を誘ってからにする筈です。
 それに、他の種族のポケモンから、妙な噂を聞きました。色違いのポケモンは人間に捕まると、珍しいから研究のため、実験道具にされすぐさま殺されてしまうという噂を。その噂は出鱈目かもしれませんが、本当だとしたら大変なことです。森の中には人間が近寄ることは無いので安全ですが、一歩森の外に出てしまうと人間がいて危険です。
 セレンは今日まで帰ってきません。人間に殺されていないことを願いつつ、もう二度と会えることはないと諦めていました。


 色違いのジグザグマが止めを刺され、友達のセレンがどこかに消え失せ、しばらく日にちが経過しました。
 この頃になると、もう彼に対する仕打ちは、極端に近づきすぎているものになっていました。しかも、心身共に壊れた翌日、再び同じ仕打ちを繰り返されるのです。終わることのないループは、彼の哀しみと恐怖を増幅させていきました。
 そして、薄暗い雲が空を覆っていたある日のこと。赤いロコンはいつもの通り、黄色いロコン達にいじめられていました。しかし彼の様子が、赤い身体の彼の様子が、いつもと少し違っていました。身体の震えの性質が、何かの破裂前を想起させるものに変っていました。瞳が心臓の内側を反射して、黒に近い赤になっていました。赤いロコンの胸の奥底に、小さく燃え盛った怒りが沸いていました。ちょっと反撃してやろうかという妄想を、具現化してみたいという心意気が、微力ながら芽生えてきたのです。彼は迷っていました。尻尾が一本引き千切られるごとに、その気持ちが少しづつ強まっていきます。やってしまおうか。なんで自分だけが、こんな目に合わないといけないのか分からない。自分が傷ついた分だけ、他の人も傷つけばいい。そうだ、もうとっくに臨界点は超えていたんだ。何もかもめちゃくちゃにすることを許されるくらい、哀しい思いを味わってきたんだ。そうだ、やってしまえばいい。赤いロコンは冷静さを失い、そして――

 突如炎が現れました。草花が悲鳴を上げ、その皮膚を焦がされていました。
 赤いロコンは遂に攻撃を開始しました。たくさんの炎を吐きました。特性が貰い火のロコンには、炎技は全く効かない。そんなことにも気が付かず、一心不乱に赤い塊を吹き出しました。
 彼の繰り出した技、それは火炎放射なのか、はたまた大文字なのか、もしかしたらただの火の粉なのか、よく分かりません。それは途轍もない大きさで、小さな狐の身体から出されたものとは思えないものでした。血の色を連想させるくすんだ赤い色の炎は、少しの間そこに留まっていたかと思うと、すぐさま周りに拡散していき、草原の一角を真っ赤に染め上げました。
 幸い、突如降り出した雨の御蔭で、すぐに炎が消し去りました。何とか草原一体が火事になることは避けられました。しかし、赤いロコンは森全体を意図的に燃やそうとしたと、黄色いロコン達に話を捏造させられ、他の種族のポケモン達もだんだんと信じるようになり、すぐにここから出ていけと全員から責められるようになってしまいました。
 彼には抵抗する力も無く、それに他のポケモン達に罵倒される内に、冷静さを失って炎を吐いてしまったのは大変な過失だと、何時の間にか自責の念を抱いてしまったので(それでも理不尽だという気持ちは微かに残っていましたが)、すぐにここから出ていくことにしました。
 赤いロコンは草原を森を抜けだしました。泣きながら走っていきました。
 空はまたしても曇っていました。


 右も左も分からないまま、特に行く場所の見当もつかず、ただ闇雲に走りました。これからどうやって生きて行けばいいのか分からないけれど、とにかく人間に捕まり実験の餌食になることだけは避けなくてはいけない。恐怖心から逃れるように、ひたすら駆け抜けていきました。
 とにかく走りました。疲れたので少し速度を緩めました。そのとき気が付きました。何時の間にか周りの景色が大幅に変わっていることに。
 彼は足を止めました。落ち着いて、辺りを見渡します。
 そこは、とても不気味な墓地でした。整った形の石が等間隔で置かれており、その石の傍らには花が添えられてありました。絡み合った汚らしい雑草が、湿った地面の上でひしめき合っていました。時折冷やかな風が吹き、いっそう不気味さを引き立て、まるで幽霊でも出てきそうな空気感でした。
 しかし赤いロコンはこの場所を、意外にも気に入っていました。こここそが本当の自分の居場所だ。本能がそう告げていました。奇妙なノスタルジーが彼を包み込み、彼の心を癒していきました。こんな気味の悪い場所が、面白いくらいに居心地がいい。
 気持ちいい。
 ここにいると落ち着く。
 薄黒ずんだ空を見上げつつ、赤いロコンは微笑んでいました。これからどうやって生きていくかなど、もうどうでもよくなりました。明るい感情だけが彼を支配し、それ以外の思考回路は封印されていました。とにかくずっとここに居たい。楽しい、それだけ。
 コーゥン。
 遠くの方から、聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきました。その後続けざまに、別の鳴き声が聞こえてきました。その方角に振り向くと、何やら赤い塊が見えました。少し近づいてよく見てみると、驚愕の事実を悟りました。そこには何十、何百という数のロコンが集まっておりました。そしてなんとその中心に、行方不明になっていたあのセレンが、微笑みながら立っていたのです。
 たくさんのロコン達。彼らは皆、身体の色が共通していました。
 赤でした。
 
 忘れないで あなたは一人じゃない

 忘れないで 味方はきっと近くにいる

 哀しい思いなんて しなくて済むから

 きっといつか あなたの居場所が見つかるから

 青い空の下には あなたが幸せになれる場所があるから


 ザァ――――――――――。
 雨が降ってきました。炎タイプは水が苦手です。遠くにいるたくさんのロコン達は、雨を避けようとして、墓地の奥の方へと行ってしまいました。セレンはこっちを見てきた後、早くあなたも防げる場所に行きなよと目で合図し、皆と同じ方へと走り去っていきました。
 彼は独り、そこに取り残されていました。早く自分も雨を防がなくてはと思い、屋根のある場所を探しに急いで走りました。そのときです。さっきまでたくさんのロコンがいたちょうど真ん中辺り、そこで黄色い身体をしたロコンが、傷だらけで倒れているのを見つけました。
 ロコン(もう彼を「赤いロコン」と呼ぶ必要はないでしょう)は悟りました。ここにいる黄色いロコンも、きっと自分と同じだったんだと。色が違う同じ種族に迫害され、毎日辛い思いをして、それに耐えてきたということを。
 ここは送り火山の頂上。ロコン本来の生息地です。
 彼はずっと、自分が色違いだと思っていました。誤解していました。でも、違いました。本当は、黄色い方が色違いで、赤い方が普通だったのです。そして今、発見しました。ここではたくさんの赤いロコン達が、一匹の黄色いロコンを痛めつけているという事実を。
 結局、その真実はどこへ行っても不変だったのです。周りと違う者は迫害され、深い哀を味わう。誰かが犠牲になり不幸な目に合わないといけない。そしてその犠牲のもとで、皆が喜び合える。青い空の下で幸せになれるのは、全員ではないということ。
 友達だったセレンは所詮、口だけでした。セレンはこれまで、この黄色いロコンがいじめられていても、無視していたかもしくは加害側だったのかもしれません。セレンは自分と自分の仲間さえ、哀しくなければよかったのです。同じ赤い仲間さえ、問題なければ良かったのです。ジグザグマが死んだときも、そこまで気にしていなかったのは、恐らくそういうことでしょう。
 セレンにとってここに来れたのはHappyEndですが、しかしその裏で別の誰かがBadEndの渦に巻き込まれていました。
 確かにここは、赤い色の者にとって、幸せになれる場所ではありました。
 ここにいれば、一人ではありません。
 同じ色の、味方がいます。
 哀しい思いなんて、しなくて済みます。
 駆け抜けたその先には、確かに自分の居場所がありました。
 しかしロコンは、自分が幸せになる道を、選びませんでした。お膳立てされたHappyEndを、掴むことはしませんでした。
ロコンはここで、ある決心をしました。誰かが喜べば、誰かが哀しむようになっている。全員が幸せになるなんて、ありえない。それはどうしようもなく正しいこと。仕方のないこと。しかし、それでも。それでも、誰も哀しまないように努力すること自体は、絶対に間違っていることなんかじゃない。全員がHappyEndになれるよう希望を持つことは、正しいに決まっている。だから自分は、もがき続けよう。戦い続けよう。
 その決心はどこから来たのか。途轍もない大きさの炎を出したことで、自信がついたのか。それとも救いようのない現実を目の当たりにしたことで、気がおかしくなったのか。どちらにせよ、彼が前向きに戦うことを決意できたのは、良いことのように思われます。
 しかし、誰も哀しませないことを目指すその行為は、残念ながら矛盾しています。なぜなら、その行為をすること自体が、その行為に反対する者を否定し、そして哀しませている。誰かを哀しませてでも這いあがって生きていこう、と弱肉強食を良しとする考えの者を、哀しませているのです。ある一定の思想を持つということは、すなわちそういうことなのです。誰も哀しまないようにすることは絶対に、できない。
 彼はその矛盾には気付いていません。恐らく、これからも気付くことはないでしょう。あるには気付いたとしても、矛盾を切り裂いてでも自分の考えを変えることないでしょう。そうして前に進んでいき、戦っていく。誰も哀しまないよう希望を持つ。その行為を止めることは、ない。
 大量の雨を降らす黒く汚れた雲から、大きな鳴き声を上げつつ、一本の黄色い線が突き出しました。その線は一瞬の間に地上に届き、拡散し回りに飛び散っていきました。
 ロコンは倒れている黄色いロコンの所まで行きました。まだ本当の意味で瀕死になってはいない黄色いロコンを持ち上げ背中に乗せた後、すぐさま雨の防げる場所へと急ぎました。

 絶対に負けないから。

 青い空を突き破っていくから。
  














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