・使用フレーズ「駆け抜けたその先には」
俺達の先輩は自由人である。
この部活の三年生は、先輩ただ一人。真面目で勤勉な人“だった”。
今は大層な自由人で変わり者である。
「ねーマジマ!おなか減ったー!私もう帰るー!」
先輩は今、柵に寄りかかってこちらに向けて不機嫌な顔を向けている。
150センチぎりぎりくらいの身長に、いいかげんに一つに結ったブラウンの髪、だるそうなたれ目。彼女の名前はライカという。
ちなみに、俺は二年のマジマ。一応、副部長。
「もうちょっとで手入れ終わりますから!早く帰りたいなら手伝ってくださいよ!」
「やだもん。傷の消毒と包帯はやった。私のノルマ終わり。」
「ギンが泣きますよ。」
「ギン兄さんの手入れはもう終わらせましたー」
「じゃあ、飼料の準備してくださいよ」
「もうにっしーにやらせてまーす」
「・・・」
聴いていると奇妙な会話だが、この部活ではこれが日常会話。
トレーナーズスクール高等科の部活である我が部の名称は、ポケスロン障害飛越部・・・通称『ゼブライカ部』。
ゼブライカに鞍や手綱をつけて、ハードルなどの障害を飛び越えタイムを競う。ポケスロンの発展競技だ。
ゼブライカ以外にもギャロップがこの競技に参加できるが、イッシュではゼブライカが主流。
ということで、ここにいる競技用ポケモンはゼブライカばかり。ゼブライカ部と呼ばれるゆえんだ。
馬場と呼ばれるウッドチップを敷き詰めた競技場に、ゼブライカ達の寝床である厩舎。
我が部の活動場所は、広い校内の中でも大きな空間を占める。
それなのに、部員は15人を超えない。部活がきつ過ぎて人気が出ないのだ。
「マダムぅー、もう怪我しないでね?私の仕事増えるの嫌。」
先輩が俺の手入れするゼブライカに話しかける。気位が高いこのゼブライカ♀はマダムミアという。
運動して汗をかいたら水をかぶりたいのは人間もポケモンも同じ。俺が濡れタオルで汗を拭いてやると嬉しそうだ。
ゼブライカ。この部に入る学生は皆、この美しいポケモンが大好きだ。
そして、先輩が「兄さん」と呼ぶのもゼブライカ。
ギンと呼ばれているそのゼブライカ♂は、本来の名をシルバーアロー。競技用ポケモンらしいカッコつけた名前だ。
オーナーはもう随分なご老人で、『もう自分ではギンを乗りこなせない』とここに預けてくれている。
ギンは、先輩が一番可愛がっているゼブライカだ。
「もう家族くらい愛してるわ。ギンは私の兄さんよ」と言い張る。
やはり彼女は自由人で変わり者である。
「ねぇもう帰っていい?てか私なんでここにいるの?」
「帰っちゃ駄目です!ここにいるのはライカ先輩が『先輩』だからです!」
夏の大会も終わり、もう他の部活では三年が引退する時期だ。
しかし、俺達二年の数は多いのに上が一人だけで、「教育が足りない」と顧問が主張するので先輩はまだここにいる。
一年も成長してきたし、そろそろ良いのでは、と俺も思うのだが。
「だって教えることもう無いじゃん!」
「そう先生に言ってください。俺は知りません!」
「マジマのけーち!」
そうぴしゃりと言うと、先輩は歩き去っていった。
きっと、他の後輩達にちょっかいを出しに行くのだろう。
―――――――――――
俺がマダムの手入れを終えて馬房から出ると、先輩はギンの馬房の前に座っていた。
ギンがゆっくりと干し草を食む前で、小さな木の椅子に腰掛け、騎乗用の革ブーツに保革油を塗る。
足元には靴墨やいくつかのブラシ、布といった道具が散らばっている。
その目は真剣そのもので、障害飛越競技への衰えない情熱を感じた。
以前、ライカ先輩はライコウのような人だった。
稲光のような眼光で睨みを利かせ、俺達後輩のミスを見逃さない。
叱り飛ばし、時に本気で蹴りを入れる。その熱い指導の様は「女傑」という言葉が似合う。
競技成績が悪かろうと、先輩は適格な指示を出せる有能な上司だった。
ライカ先輩は、もう部長ではない。
昨年の終わりごろに代替わりした、というかさせられた。
俺の同級で、才能溢れる男がいるのだ。反対に先輩は競技の成績が悪かった。小柄すぎて、踏ん張りがきかないのだ。
彼は悪い男ではない。むしろ、俺は副部長として彼を支える事に喜びを感じる。彼はカリスマだ。
顧問は何より彼の成長を求めていて、先輩は些細な事を理由に早々にお払い箱にされたのだ。
今日からお前はただの部員だと言われ、先輩はもう荒れに荒れた。
自分の学年は自分一人だから、いつかたった一人でこの部活を背負わなくてはいけない。
そんな重圧と戦いながら過ごしてきた日々は一体何だったのかと。
しばらく部活から離れたが、いつしか帰ってきた。
それから先輩はのんべんだらりとした人間になった。
俺達の存在は、先輩の情熱を手折ってしまったのではないだろうか。
そう思って俺は、もやもやしている。
「先輩は、どうしてここにいるんですか?辞めようと思えば、辞められるのに」
俺は先輩の隣にあぐらをかいた。ほこりっぽいセメントの床が冷たい。
「ギンがいるからですか?」
名前を呼ばれて、ギンが干し草から顔を上げる。タテガミから、ぱちりと静電気がはじけた。
先輩はブーツから顔を上げない。黙々と保革油を塗っている。
それからふと手を止め、ポツリポツリと話し始めた。
「乗るのは楽しい。そうでしょう?」
俺は頷く。
騎乗して走ることは、ポケモンバトルと同じかそれ以上、気持ちが昂る。
スピードが上がるとバチバチと輝くゼブライカの体躯は力に溢れ、こちらも体が帯電したような気分になる。
鞍の下から伝わる温かさに、筋肉の躍動や呼吸音。膝やフクラハギ、手綱で伝えるこちらの意志。
速く速くとアツくなると同時に、冷静にコースを見やる精神の温度差。
緊張して固くなる全身の筋肉はしかし柔らかく、柔軟に相棒の動きに合わせられる。
自分より何倍も強い存在を屈服させて駆け抜ける。
その奇妙に完全で猛々しい感情は、普段の生活では決して得られないものだろう。
「ギン兄さんは大好き。兄さんほど乗って楽しい子はいない。だけどさ」
先輩は、今度は靴墨を取り出した。ブラシを使い、薄く丁寧にブーツに塗ってゆく。
「何より、みんなといるのが楽しい。最初はヒヨっ子で、鞍にも乗れなかったお前達が今じゃ全国に行くレベルだ。
私には競技の才能は無かった。お前達にはあった。」
ギンが、きゅひーんと低い声で鳴いた。ねだるようなその声は、くつろいだ気分の時に出す鳴き声だ。
先輩は自分が今、昔と同じ喋り方をしているのに気付いているだろうか。
きっと気づいたらすぐにだらりとしたいつもの姿になってしまうだろう。だから俺は何も言わなかった。
「ギンも、お前が乗ったほうがいい成績が出る。私はギンを誰より愛してるつもりだが、それとこれは別。
思いと結果はイコールじゃない。ギンはお前と相性がいい。」
柔らかい布でブーツを磨きながら、先輩は言った。
「マジマ、お前は技術では私をとうに越えた。次はお前が、お前を越える存在を育てろ。
偉大な先人の屍を越えて強くなるものさ。
お前がギンと駆け抜けたその先には、栄光が。その後ろにはお前を追う後輩が。
強さだけじゃない。お前は私より、偉大になれ。」
私は偉大なんかじゃなく、ただの『まるで駄目なおじょーさん』のマダオだけどねぇ。あークサい事言ったわーうはー!
そう言って、先輩はへらへらと笑った。
牙は折れたわけではなく、隠れただけだったみたいだ。
「ライカ先輩なんかより偉大になんて、俺になれるんすかねぇ」
「なれるさ。お前もあいつも、みんな。私の後輩なんだから。」
綺麗に磨き上げられたブーツ、よく使い込まれたブーツが、ぴかぴかと黒く輝いている。
まるでゼブライカの輝く毛並みみたいだ。
先輩は、誰よりこの部活を愛している。